1年が過ぎた

 転勤して、1年が過ぎようとしている。

 「1年目に気がついたことをちゃんと書き残しておかんと」と、さんざん周りから言われ、自分もそうせねば、と考えていたのだが、いかんせん、考えがまとまらず、いや、書くとまとまるのかもしれないが、ちょっとサボっていた。

 書くことについて、今まで以上に慎重になっている。

 クラスサイズが小さいので、授業のことや生徒の事を書くと、「特定」されて、生徒に不利益が生じかねない。そうなるとマズイよね、やっぱ。

 しかし、支援学校になんとなく「閉塞感」を感じるのは、私だけではないのではないか。もしかしたら、偶然、私の書いたものを読まれて、「ああ、私も〜」という人もいるかもしれない。「閉塞感」と「専門性」は、表裏一体なのかも。「専門性」は大事だが、そればかり見ていると、周りが見えない。バランスは大事なことだろう。その意味でも、できる限り、差し障りのない範囲で書いていこうと思っているが。


 私が、支援学校に転勤してきて、つくづく実感しているのは、「コミュニケーション」ということである。

 意思疎通(いわゆるコミュニケーション)を図る上で、日常的に行き違い、とか誤解とかが、結構多い。それは、前任校で40人を相手に、授業やホームルーム活動を展開している場合でも起こりうることなのだが、こちらの意向と生徒の受け止め方の大きな違いに愕然とすることも多い。また、その多くは、それぞれの生徒の障害に起因しているように思われる。

 いままでも、「コミュニケーション」という言葉をさんざん使ってきたが、それについて、ホンキで考えたことなどなかった。今はつくづく、コミュニケーションが上手にできるかできないかが、障害か障害でないかの判断の基準なのでは、とさえ思う。

 たとえば、聴覚障害の人でも、コミュニケーションが上手がとれれば、私たちに「障害」という認識は芽生えないだろう。逆に、一般にいう「健常者」でも、時と場合によって、理解や行動の仕方が一般の人と大きくズレてもいることもある。そんなときは、密かに心の中で、アスペルガーなどの「障害」??などと考えてしまう時もある。うーーん、まだまだ私は勉強不足じゃあ〜。

 まあ、障害については、これからおいおい勉強することにして、英語教育のことについて少し書く。

 教えたことすべてが、学習者に習得されないのは当たり前のこと、といえば当たり前のことだが、支援学校の生徒に対して、とても悩ましいのは、習得が進まないのは、個人の能力のせいか、障害のせいなのか、見極めが非常に困難だ、ということだ。

 個人の努力で習得できることなら、ある程度厳しく指導したいが、障害のせいで習得が難しいのならば、はじめから到達度をどの程度にするかを考える必要がある。特に聴覚障害の生徒の場合、聞こえの程度が個々人によって大きく異なり、また、それが言語の獲得(習得)に大きく関わっている。が、聞こえが悪くても、日本語や英語が、よくできる生徒もいれば、比較的良く聞こえていても、英語が入っていかない生徒もいる。この辺が、大変悩ましい。

 聴覚障害英語教育研究会にも参加させていただいている。

 その会誌で、聴覚障害を持っている方々の英語勉強法を読ませていただいた。はっきりいって、皆さん凄い努力である。ハンパな努力ではない。私が、英語を学ぶ努力なんて、その方たちの足下にも及ばない。その努力される姿に、大変敬服する。が、読んでいて凄くツライ。現在の日本の英語教育の大きな流れ「楽しくコミュニケーションをはかりましょう!」とは真逆である。個人的な英語勉強法を読んで、一般化してはいけない、と思いつつも、聴覚障害の生徒にとって、英語を使いこなすレベルに達するためには、楽しい英語学習とかは無縁なのか??それとも、英語(外国語と置き換えた方がいいかもしれない)を根気強く勉強し続ける事ができる生まれつきの美徳を備えた人でないと、外国語(手話を母語としている人には日本語も外国語なんだそうだ)の習得は難しいのか。健聴の生徒との決定的な違いに、目がくらむ。聴覚障害の生徒に対する英語教育を考えると、深い深い井戸の中をのぞき込むような感覚に襲われる。効果的な授業を展開するには、現状では教師自身が手話が使えたほうがいい。すべての授業に要約筆記者や手話通訳者がいれば、話は別だが、そんな日は到底来そうにない。また、効果的に視覚教材を使った方がいい。夏に参加させていただいた前述の研究会の総会で、パワポのアニメーション機能を使って語句を提示する教材を見せていただいた。すばらしい教材だったが、「ここまでやって、はじめて効果が期待できるのか」と、またしてもくらくらめまいがした。思えば、くらくらめまいばっかりしてますけどね、この1年・・・。

 それから、英検に特化した雰囲気も気になる。

 英検に聴覚障害の特別措置を長年に渡って要望し、それが近年実現した経緯もあるのだろうが、20年近く普通の高校で英語を教えてきた立場から見ると、「ここまで英検?」と感じることも少なくない。聴覚障害の人の場合、具体性に欠けるものは、理解が進みにくい傾向がある。「英検の問題」→「解ける」→「○級に認定」→「楽しい」→「英語に一生懸命取り組む」というサイクルができて、「英語学習」の一番わかりやすい形が「英検」なのだ、とは思う。・・・が・・・。

 一般の生徒もそうだが、ここにきて「なぜ英語を勉強するん?」という、根源的な問題に立ち返ってしまうわけだ。

 普通の生徒や子供なら、「外国の人とのコミュニケーション」とあっさりすんでしまうところかもしれない。進学校は、スゴクわかりやすい。「大学受験にいるから。強いて言えば、大学で受ける教育に英語が要るから。」

 「大学入試」は、この1、2年、本校ではやっと現実味を帯びてきているが、関係ない生徒のほうが断然多い。英検の勉強をして、進級する方が、よっぽど具体的で、現実味があるか。かといって、「コミュニケーション」をあまり持ち出すと、「じゃ、ASL( American Sign Language )とか外国の手話を勉強したい」と言いだしかねない。実際、英語の単語を覚える時に、ASLを一緒に提示すると、定着もいいそうである。日本語の「取る」と「take」は、手話も違う。それゆえ、ニュアンスの違いもよくわかるらしい。しかし、その場合も、教える教員自身が日本語の手話に精通していて、ASLもできるよ、という状態でなければ、指導は難しいらしい。また、私たちが教えるのはあくまで「英語」であり、ASLではない、という立場をしっかり学習者に理解してもらえるのか・・・。考えれば考えるほど、深い深い井戸の中に自分の体が落ちていきそうである。
 
 最後にもう1つ。「個人の能力に合わせて」が、基本スタンスなので、教員集団として1つの目標を持って、学力向上などの問題解決に当たる体制づくりがなかなか難しい。今までの職場では、フツーに教材研究をしながら、疑問点を質問し合ったり、教材を共有したり、生徒の情報交換をしたりしていたが、今はなかなかできないでいる。この「同僚性」の部分は、今後、改善できるものなら何とかしたいいものだ。

  こうして、自分のHPで、所感を書き散らすのも、どこかに「わたしだけじゃない」と思ってくれる誰かがいるのではないか、とちょっと期待する部分が大きい。ブログをこまめに更新したり、ツイッターでつぶやいたり、するのはちょっとね、という立場なので、慎重かつ、ちょぴっと大胆に、「なんか書いていきたい」ものである。

(2011年3月)